okinawan portraits 2012-2016

アーティストトーク レポート【第二回】

【第一回】に続く【第二回目】では、石川さんの人生、生き様から「写真」、そして「沖縄」への思いを掘り下げていきます。

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《絶景のポリフォニー》八重瀬 YAESE, 2014

 

(倉石さん)「絶景のポリフォニー」の表紙の写真、これは小屋というのか、実際に住んでいる人がいるんですか。

(石川さん)あれは今は無くなってますけど、闘鶏の賭博場で、そういう場所でした。

(倉石さん)建築物、構築物というか、そういうものが写っている風景が割と多かったですね。つまりある意味で、「ポートレートとしての風景」というか、そういう人間が写っていなくても人を直接的に感じさせるものが多かったような気がしたんです。それはこの6×6のフォーマットが呼び込んでくるものだったという感じなのでしょうか。

(石川さん)それはあると思います。

(倉石さん)今度の写真集では、自然にもっと風景を撮ってみようというふうになってくるわけですか。

(石川さん)フォーマットが変わったことももちろん影響しているんですけど、元々「風景」についても意識しだしたタイミングだったので、それが重なったということですよね。多分フォーマットが変わらなくても、風景はもしかしたら撮っていたかもしれないんですけど、それがうまい具合に重なったなというのは自分でも感じています。

(倉石さん)より自由だし、見ていく時間が少し長くなるような印象でした。見る側の勝手でいうと、これまでの石川さんの写真は一発で見る側が打ちのめされるみたいな感じ、一挙にわし摑みにされるようなところがあったけれど、新作はじっと見ていて次第に引き込まれていくような、見る側の時間の変化も生じてくるように感じます。ちなみに石川さんの写真にある不思議な部分、面白い部分というのは、心が動いたらすぐにシャッターを切るみたいなことで生まれるんでしょうか。

(石川さん)誰でも見つけたら写真撮りたくなるし、何も考えてないっちゃ考えてないんですよね(笑)。考えてないっていうよりも、考えるところは写真を撮るということではなくて、別のところにあるんじゃないかっていつも思ってます。

(倉石さん)「別のところで考える」というのは、どんなことをどう考えることなのでしょうか。

(石川さん)何をどう撮るかっていうことではない気がしています。それよりも、「目の前にあるものがどういう意味を持っていて、自分の中で何で反応したか」ということを考える方が楽しいかなと思っています。写真、ポートレートを撮ってると、被写体に教えられることもたくさんあって、そういうふうにやっていく方が楽しいんですよね。

(倉石さん)「被写体に教えられる」というのは、具体的に言葉にできることですか。

(石川さん)今回展示もしてるんですけど、アルビノの少年のことは、これまでの自分の中では一番衝撃的でした。その子がアルビノということが衝撃的だったんじゃなくて、出会いとしてですよね。僕は、はじめ、アルビノっていう症状をわからなくて、普通にヤンキーの親が髪を染めたりとかして、遊んでると思って声をかけたんですよね。それで写真を撮らせてもらっていたんですが、ちょっと違うかもしれないと思って調べたら、アルビノという症状があるってことを知りました。それから本を買って読んでみたりして、自分の世界が少し広がったかなと、そういうことが印象に残っています。

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(倉石さん)今回改めて石川さんのインタビューを読んだり、写真集のテキストを読み直したりしましたが、石川さんは知的な装いをいつもうまいこと殺している。私は、石川さんはとても知的な写真家だと思いました。知識をひけらかすとか、上手に語ってみせるということではなくて、自分がその物事について考えていること、より何が本当のことなのかを見極めようとしているということがインタビューから凄く伝わってきた。『HereNow Okinawa』での川口美保さんによるインタビューなんか、とても面白かったです。

(石川さん)これ結構言いすぎたなぁと思ったりするんですけど、その時の社会的な状況も、ちょっと今と違ってるところもあったので、ここまで突っ込んだところもありました。でもそのあと反省しましたね。もっと自分が考えないといけないなっていうようなこともインタビューで語っていたので、この頃はちょっと調子に乗ってたんじゃないかな。(笑)

(倉石さん)石川さんは川口さんによるインタビューでは、複雑な言い回しで、いろんなことについて語っているわけです。「okinawan portraits」は今回も、前のシリーズもそうだと思うんですが、基調となっているのは、生きていることの過剰さを抱えている若者たち、あるいはいわゆる「正常」や「普通」と言われているところから、先天的にも後天的にも外れてしまっている、そういうさまざまな人たちを撮っています。たとえば異装者というか、別の性を生きようとしている人、そういう人たちが写真集のいわば基調になっているわけですね。このことに関連して、先ほどのインタビューの中で非常に興味深いことを語っていました。フランスでの滞在制作の話題で、フランス社会の移民の話が出たり、ゲイの人を撮ることについての話をしている中で、インタビュアーがこう言っているわけです。「ある種のマイノリティーの人たちに、視線が常に注がれている」と。それをどういうふうに考えていくかというところで、石川さんは、そういう社会の中であらかじめ「印」を付けられている人間をずっと撮っていくことによって、時間が経つとフラットになっていく、その状態を目指したい、という意味のことを語っていました。私はとても面白い考え方だと思いました。つまり「印」の付けられている人間を撮ることは、写真の歴史の中でもとても多く、ある意味で石川さんはそうした系譜の上に立っていると見られがちなのかもしれません。だけど、やっぱりそれだけじゃないというか、むしろそうではなくて、もう少し違うところに出て行きたいという気持ちが石川さんの中にはある。そういう意識を、「フラット」という言葉を読んだ時に感じたんです。

(石川さん)そうですね。言葉にするのが難しいですけど、そもそも、同じものなんて一つもないわけで、それって当たり前のことだと思んです。だからみんな同じにする必要はないというか、違うものを「違う」と分けてしまうことは、何が違うのかと。自分のことをどんどん深く考えていくと、もちろん自分にはないものはたくさんあって、あるものもあって、っていうことになった時に、そんなに「存在」としての違いはないわけです。ただ今の社会というか、資本主義における生産というなかで考えたときに、多数派を中心とした社会が作られる。社会的弱者は、そのなかでの多数派から見た弱者であって、決して、人間としての弱者ではない。要するに、現在の社会のかたちが変われば、ある人は弱者でもなければ、マイノリティーですらもなくなる。現代の福祉や障がい者の労働の意味は、偽善などではなく、今まで見落としていたその社会の可能性にあって欲しいと思うんです。

(倉石さん)区別されがちなマイノリティーの人たちもよく見ていけば、一人一人が個別性を持っているという。インタビューの中で石川さんは、「被写体となる人たちのこともそうなんですが、と同時にそれを撮る写真家の方も最初に全てをさらけ出す。例えばゲイを撮っていれば、ゲイの写真家だってレッテルを貼られるとしたら、それをやり続けることでこの人はゲイだとかこの人のバックグラウンドはこうだとか、そういう見方をすることにみんなが飽きるのを待ちたいんです」とありました。もっとはっきりいってしまえば、「沖縄の写真家」と言われることにみんなが飽きるのを待ちたいっていう気分はありますか。

(石川さん)あります。そういうのって、もちろんついてくるものだと思うんですけど、本当に撮りたいものとか写っててほしいものは別にそういうことじゃない。でも自分の中にもやっぱり自分が生まれたところは沖縄だ、というのはもちろんあって、だから完全にそれをなくすことはできないんだけど、それが大切なことではないから。

(倉石さん)いわゆるマイノリティーの人たちを撮るということに関しての石川さんの考え方やアプローチは、基本的にはやはりヒューマンであると思うんですが、その一方で、出発点としては「人間なんか」というところがあるような気がします。ヒューマンなアプローチというのは、それ自体とても形骸化しやすいというか、わざとらしいものになりがちですよね。そういう意味では、石川さんはつねにヒューマニスティックなことを云々するより前に、暴力的にむき出しの顔をさらすような撮り方をしている。そのことと、最近の人を撮る時の意識の変化についてはどうですか。今回の新作は、またちょっと意味合いが変わってきているように思えるんですけども。

(石川さん)そうですね。別に僕がやりたいことや考えてることは、社会的な弱者にもっと優しくしようって言いたいわけでもない。だから同じ人間、人として、同じようにくだらないと思っている部分もあって、でもそれがめっちゃいいなって思ってる部分もある。例えばこの顔のアップってやばいじゃないですか。ど迫力っていうか、別に写真に撮らなくてもすごいんですよね、やっぱり。(笑)

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《絶景のポリフォニー》那覇 NAHA, 2012

(倉石さん)でも撮っちゃいますよね。

(石川さん)サバサのまつ毛が単純に面白くて。だから、この人がゲイかドラァグクイーンかどうかっていうよりも、その人のやってることっていうか、そのもの自体が面白いっていうことなんですよね。

(倉石さん)先のインタビューで、沖縄の好きなところはどんなところですかと聞かれて「弱いところですかね」と答えてましたよね。そこからインタビューの中では、どんどん沖縄の否定的なことを連ねていくような感じでした。そういう「弱さ」みたいなところから生み出されてくる人たちの過剰さであったり、風景もある意味で壊れている風景というものが見えてくると思うんですが、そういうものにどうしても惹きつけられていくところがあるということでしょうか。

(石川さん)そういうことになるのかな。単純にそれだけだとも僕は思ってないんですけど、そういう部分もあって、そこはやっぱり僕に置き換えて言えば、僕なんてどうしようもないクズだと思ってるわけで(笑)、だからどうするべきかっていうのを、ちゃんと考えたほうがいいっていうことですかね。

(倉石さん)クズにならないように。私もクズからもうちょっとはまともな人間になろうとしないと、クズのまんま一生終わってしまうから。

(石川さん)そうですね。

(倉石さん)どうやれば抜け出せますかね。

(石川さん)そうなんですよね。それは僕が写真で撮っている中で、共通して言いたいことの一つでもあるんですよね。僕にしても、人間ということにしても、少しでもいい方法を考えていけないのかなぁみたいなこと。

(倉石さん)そうなんですね。まとめてしまうといけないかもしれませんが、沖縄を撮っていた東松照明さんのような写真家の場合、「沖縄」を撮るというのは二つに引き裂かれることがある。一つは自分の嫌いな否定的な面、つまり基地を中心とする政治的な問題を撮るということ。もう一つは自分の好きな肯定的な沖縄を撮る、八重山・宮古など、古い習俗がまだ息づいている場所を撮るという二つがあると思うんですね。そのうち前者の否定的な沖縄を撮る場合、優れた写真家であればあるほど、自分の否定的な対象をスタイリッシュに、格好良く撮ることになってしまい、その矛盾が広がっていくところがある。石川さんの場合には、社会で実際に生きている人に迫っていくことも多いわけだから、好き嫌いを言うにしても、入り組んだ、繊細な手続きが必要になってくる気がする。だから石川さんがインタビューのなかで、沖縄で好きなところは「弱さ」であると答えながら、そこから沖縄は「クソッタレ」だっていうところまでの振幅、言いたいことの伝え難さみたいなことは、写真がとてもストレートで一見わかりやすく受け取れることと対照的です。つまり写真の見かけのわかりやすさの中に実は、石川さんの非常に複雑な感情が織り込まれて存在している。それと、いわゆるマイノリティーの人々の撮り方もグラデーションがありますよね。でも写真を撮る瞬間っていうのは、もちろん分類しながら撮っているわけじゃ全然ないわけでしょう。

(石川さん)街にいれば気になりますよね。例えば、足をビッコ引いてる人がいたら気になるじゃないですか。気になれば、撮らせてくださいっていうことで、そういう感じですね。少し前だったらクマの着ぐるみ着て歩いている人がいたら、クマの着ぐるみ着てるってなるじゃないですか。それと同じように、ただ洋服のボタンが掛け違えてただけでも、それに気づいたら声をかけたくなるし。

次回【第三回目】では、新刊の写真をひとつひとつ読み解きながら紹介していきます。

 

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石川竜一
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