安野光雅のふしぎな絵本展

遊び×芸術×科学 トークイベントレポート2後編

九州大学芸術工学研究院連携企画

「現代においては、過去を考えることが、未来を考えることよりも、より自由な気がする」と題した、アーティストの八木良太さん、城一裕さんによるトークイベントのレポート後編です。大学で教えるという立場にいらっしゃるお二人が、学生さんたちとおこなっているプロジェクトに関するお話などが続いていきます。第1回前編後編、第2回前編とあわせて是非お読みください。(※本文は、本イベントのトークを一部抜粋・編集したものです。)

 (八木さん)今の学生は、コンピュータの中の世界に生きてるなと思うときがあります。それで、大学の授業では、19世紀の発明品を学生に再現してもらうプロジェクトをやっています。19世紀の発明品って身の回りにあるもので作れる、単純なものが多くて。学生たちはいわゆる古いテクノロジーに触れたことがない子がいっぱいいるんですけど、そういう子たちと万華鏡やメトロノームを作ったり、写真の古典技法をやったりしています。魚焼きの網をくっつけたトースターを作ってる女の子がいたり。

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(城さん)どういう風に八木さんは関わっているんですか?

 (八木さん)緒にやってみる。トースターを分解したものを100Vの電源に突っ込んでバチンってなって煙出すとか。失敗も共有するような感じです。あとは発明の背景を調べてきなさい、とか、画像を検索して提出しなさいということを挟みながら、授業を進めています。
この授業のプロジェクトもそうですが、新しいものを作ることよりも、昔のことを見つめる作業自体が重要になっています。同時に、クワクボリョウタさんや城さん、みなさんが興味のある眼差しの向かう先が同じような気がしています。

 (城さん)このトークがはじまる前に、まさにその話をしてましたよね。お互いの興味の方向性が似ているのはなんでだろうって。次回のゲスト・アーティストのクワクボさんは、初期はガジェットやデバイスアートと呼ばれるような電気で動くピカピカするような作品を作っていました。が、今ではまったく別の作品を制作している。僕も元々はMAXというソフトを使ったプログラミングとか、色々コンピュータを使ったり、デバイスを作ったりしていたんです。
2000年代前半くらいまでは、それまでできなかったことができるようになった面白さがあった。でも今はコンピュータを使えば、いろんなことができちゃうのがもう自明で。あまりにも自由度が高すぎて、かつ、人とお金をかければかけるほど良くなっていくのがわかる。そこに一人で立ち向かうのは厳しい。それよりは一人でできることを興味の赴くままに進んでいって、ちょっと頓知を利かせて。それによって違うものを生んでいこうとする方向性が、個人ベースでやっている人たちには共通してあるのかな、と。

 (八木さん)僕は技術がそんなにないのでテクノロジー=なんでもできちゃうというほどではないですね。でも、身体感覚を取り戻すような感覚が、昔のテクノロジーにはあるかな。たとえば、活字は大量にある中から文選して、組んでいく。それで辞書を作るなんて、途方もない作業ですよね。今では考えられないような労力。そこに、不思議な感じがあって。

 (城さん)コンピュータってなんでもできちゃうと言える一方で、何してるかわかんないブラックボックスになっている部分があって。コンピュータを使った展示で時々ある感想が「なんだかよくわかんないですけど、すごいですね」って。それまったく褒め言葉じゃないんですよね。わかんないのすごいって言うなよっていう。

 (八木さん)すごく無責任な感じですよね。

 (城さん)そう。そう言われてしまうことへの悔しさがあって、「車輪の再発明」があるんです。レコードだと溝も見えるし、音が出る原理も知られている。おじいちゃんが見ても「わかんない」とは言わせないというのがあって。

 (八木さん)種も仕掛けもありませんっていうのを見せるほうが、不思議さがより強く伝わりますよね。わからないものを隠しておくのって、不思議さが意外と浅い。レコードの、あの溝の形から音が出るって不思議さは、掘り下げても掘り下げても全然魅力が損なわれない。面白さっていうのがずっと持続する感じがあるんです。

 (城さん)とはいえ、学生とやっていて危惧していることもあって。こちらとしては、コンピュータがなんでも出来てしまうブラックボックスという前提のもとに、そうではないやり方の話をしている。でも、学生たちは、ともすると、プログラミングをやらない、つまりコンピュータのことを理解しないままに、いきなり紙のレコードを作ることになる。それはそれでおもしろいことなんだけど、なんか、それでいいとは言えないよなあって。

 (八木さん)コンピュータのこともしっかり知って欲しいってことですよね。平等にメディアを眺めることができる位置にいたい。新しいものを否定するわけじゃなくて、そっちも好きだけど、こっちも好き、みたいな。

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(城さん)ありえたかもしれない未来をつくる。そのベースには、多様性が高い方がよいというのを信じているところがあります。

 (八木さん)僕も同じですね。やっぱりいろんなものがあった方がいい。

 (城さん)予想していないものがある方がいい。さきほどjohnsmithくんの磁石を耳につけて、コイルを近づけて音が出る装置。これ、話だけを聞いたとき、いやいや、柔らかい耳に磁石をつけても鳴らないよ、無理だよって僕は言ったんです。でも、さんざんバカにしたあとに、実際にやってみたら、かなりよく聞こえた。

 (八木さん)予想を裏切られる結果に快感を覚えてやっているところってありますよね。僕の氷のレコードも、その当時一緒に住んでいたミュージシャンには「そんなん鳴るわけないよ」って言われてた。だから聞こえたときにびっくりしていて、僕自身もびっくりしてすごく印象的だった。
いい職人や専門家って、好奇心が強いから、僕の作品なんかも面白がってもらいやすいですよね。だから、技術者の人に作品を見せると盛り上がったりする。
VHSの技術者の人に話を聞く機会があって、さっきのカセットテープの球体の作品をビデオテープでやりたいって話をしたら、面白がってくれて。でも、結局は「それで再生するのは無理」って向こうから言われちゃったんです。「ビデオテープは回転の角度がすごく厳密に決まっていて、適当に合わせるだけでは映像は出ません」って。
がっかりして帰って、その1-2年後にクワクボさんに相談したんです。そうしたらクワクボさんは「できるよ」って。赤、青、緑のコンポーネント端子のうちの緑のやつをだましたらできるよって。で、やってみたらできたんです。ノイズパターン見たいなのが出た。技術者の常識の中での再生っていうのは元のテープに入っている画像が出ることだったんだけど、クワクボさんは僕の考える再生というものを、理解してその場でぱっと答えを出してくれた。異分野の人と話をするっていうのは、すごく楽しいというか。たとえ否定されたとしても面白いし、否定されてもアーティストとして受け入れてもらえた気がする。創造的な誤解や誤読が起きやすいんですね。

 (城さん)異分野に行って、プラスαというか、その分野の人たちに取ってもびっくりするようなことをもたらすのが、大事かもしれませんね。

(八木さん)向こうの人からしたら、これでも再生って言うんだっていうのが目からウロコってなってほしいです。

 (アルティアム・笠井)「車輪の再発明」プロジェクトや、八木さんが学生さんとされた、19世紀の発明をもう一度作るっていうものは、いじわるな見方をすると「これはアートなの?なんなの?」という話になると思うんです。学生さんや周りの人たちはどういう反応をしていますか?

 (城さん)それはすごく意識しています。車輪の再発明では先程のレコードのような作り方自体は作品ではなく、技法って言い方をしていたんです。その技法はwebで公開したり、各々ワークショップで共有したりしていて。その上で、それらの技法を使って何を作るか考えてできたものは「作品」と呼んでいました。このヘッドフォンみたいなやつで言うと、スピーカーを磁石とコイルに分解するところまでが技法、分解したものを使ってつくったこの装置は作品としています。こういうように作品を作る、っていうことを二段構えの構造で捉えられないかなと思っています。というのも、特にメディアアートでは、作り方と作られたものがごっちゃになっていて。作り方がすごいだけなのに「作られたもの」の方がすごいってなっていたり。その逆もあったり。このことを切り分けて議論してみたいと言うのが一つの動機です。うまくいっているかは、わかんないんですけど。

(八木さん)でも成果が出てるんじゃないですか?学生がどう思ってるのかはさっぱりわかんないです。表現するというところが、すなわち、アート作品、みたいに考えていたりする人がいるんですけど、僕としてはそこは大きな罠で。表現しようとするとあまり良いものができない気がしていて。せいぜい、あるものの中から選ぶというくらいが良い気がしていて。さっきの発明品のリストから選ばせたのもそういうことに近いです。
さっきの「メタ考古学」のときの御影石を切ってくれた石屋さんが関ヶ原にあるんです。京都から2時間くらいかかるんで、その往復するくらいだったらと、電話で「お任せするので良い感じで切ってください」っ言ったんです。「いや、そんな勝手なことをできません」って(笑)。でも、なんとか切ってもらったら、よかったんですよ。僕が意図的に形を選ぶと、たぶんあんまりよくなかったと思うんです。やっぱり学生には作る自由さみたいなものはあまり与えない方が良いのかなと思っていて。再現するとか、トレーニングみたいなものの方が、可能性あるような気がするんですよ。「好きに作って良いよ」っていうと、だいたいあんまり面白くなくて。

 (城さん)それはそうかもしれないですね。デザインの世界ではよく言われることですが、制約がある方がものは作りやすい。それと近いものがあるかなと。
でも、さっき笠井さんが言ったみたいな、それが作品になるのかならないのか問題っていうのは、つきまとう。

 (八木さん)あんまりそれで定義しにくいところではありますね。アーティストか技術者か研究者かって話とも重なりますけど、ジャンルを分けるのってその人の態度じゃないですか。作品って言ってもたいしたことないのに作品っていうときもあるし、すごいものが作品かっていうとそうじゃないと思うんです。そこの線引きは話していてもうまく問題が解決しない感じはしますね。

 (城さん)アーティストか技術者か研究者か、というのが態度の問題というのはわかる気はします。ただ、自戒を込めてでもあるんですけど、僕も作品を展覧会に出すこともあれば、ライブパフォーマンスをすることもあるし、論文を書くこともあって。全然違うことをするわけではなくて、ごく単純に言うと、全部紙のレポートでそういうことをすることもできる。ジャンル分けっていう考えとはちょっと違うように捉えた方がいいんじゃないのかな。

(八木さん)城さんは特にアウトプットのチャンネルが多いですよね。作品でも、論文でも。中心に揺るがないものはもちろんあって、それを人に伝える、表現するために、いろんな手段を持っている。それってやっぱり豊かなことかなと思います。

 (城さん)同時に気をつけないといけないと思っていることもあって、研究の方で作家のふりをしたり、作品の方で研究なんでって言っちゃうと、イソップ物語のコウモリみたいになっちゃって、どこから見てもどっちつかずという残念な方向に行く危険性がすごくあるんです。

 (会場より質問)芸術や美術作品における評価はどのように考えていますか?

 (八木さん)すごい質問ですね。絶対的な評価っていうのは僕はうまく答えられないです。僕の中では「悔しいかどうか」ですね。「うわっこんなことやられた、ちきしょー」っていうのがあると、芸術的価値の高い作品だと思っています。

 (城さん)自分の側からする評価としては、少しアカデミックなやり方になりますが、過去の関連しているものとの対比で位置づけていくという方法があると思っています。いわゆる数値の評価の代わりに、前にあったものはこういうもので、それに対してここで作ったものはこうなっている、と。それは、作品の良さについて数人の被験者を対象に評価実験をするよりは正しいと僕は思っています。

 (八木さん)それは新規性ということですか?

 (城さん)新規性というか、オリジナリティかな?

 (八木さん)そこはちょっと悩んでるとこなんですよね。オリジナリティがあるって言っていいのか。昔先生に言われたことなんですけど、お前の考えているようなことは既に世の中にあると思って制作をしないと、作品なんてつくれない、と。実際、氷のレコードもスウェーデンかどこかのバンドが作ったりしてるし。だから、すごく足元グラグラします。その辺のこと考えると。

 (城さん)違う言い方をすると、それ自体のオリジリティを求めるというよりも、作品の位置づけの仕方に求めていくというか。

 (八木さん)ある人は音楽の文脈に位置付けるかもしれないけど、僕は美術の文脈でいくというか。

 (城さん)自分の言葉(論文)で自分の作品について説明できれば、研究と言えるのではないでしょうか。自分の作品について自分なりの歴史を編んで、破綻のないように見せればいいんじゃないかなと思うんです。じゃあお時間ですね。

 (八木さん)ぴったりですね。

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