諏訪敦 2011年以降/未完

諏訪 敦×野村 佐紀子 クロストーク レポート〈後編〉

「諏訪敦 2011年以降/未完」展に関して、「諏訪敦×野村佐紀子 クロストーク」を2回に分けてご紹介致します。トーク後半では、古事記をテーマにした作品やハルビンについてのお話に深まっていきました。前編はこちらからお読みください。

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(諏訪敦さん)野村さんは言葉で説明をするという感じじゃなくて、自分の感覚を大切にされていますよね。例えばさっきもモデルの話をした時に「相手と同じものが見える」とかそういうおっしゃり方をしていたんですけど。

(野村佐紀子さん)やっぱり正確に伝えるのは難しいですよね。これは赤いですね、と言われても同じ赤色なのかなと思わず思っちゃいますから。

(諏訪さん)そうですよね。

(野村さん)うん。そうすると何も伝わらない。難しいですよね。見ているものが同じものじゃないかもしれないですもんね。違うかもしれないっていうのはいつも思っちゃうんです。

(諏訪さん)客観というものを信じられない、ということですね。例えば赤いポストを見た時に、世の中の人は全員同じようなポストを見ていて、同じ赤色を感じているだろうと。基本的には写実絵画はそういう信仰の元に描かれているんですよ。コップは百人に聞いたら百人がコップと感じるという。僕はその辺りを疑っていて、ここ数年の制作動機になっています。客観性を尊重するのは、写実絵画のテーゼだと思うんですけど、物事は脳の中にあるゴーストのようなもので、結局は主観でしかないんじゃないかという感覚があるんです。野村さんはいかがですか。

(野村さん)私の場合は写真ですから、それはまたちょっと違うのかな。写真の場合は、そこに実際の対象がありますからね。

(諏訪さん)だけど、おそらく同じ現場で、僕が野村さんと同じカメラ機材で写真を撮ったとしても、全然違うものになると思います。作品に現れるものは野村さんが見ている風景ですよね。

(野村さん)そうですね。

(諏訪さん)写真家の凄さは、自分の主観や頭の中に起こっていることを正確に印画紙に再現できるということです。僕たちは何千枚と写真を撮っても、実感に近いイメージは焼き付けられないんですよ。

もうひとつお聞きしたいのですが、『月読』はどうしてこのタイトルにされたんですか?

(野村さん)タイトルはいつもすごく困っていて、ほとんど自分では付けないんです。

(諏訪さん)そうなのですか。僕もタイトルは思いつかない方で、困ったら《Untitled》にしています。だから非常に多いんです。だから、誰かがタイトルを付けてくれるのは羨ましいですね。どういう人が付けるんですか。

(野村さん)『月読』は、一緒に作品集を作ったデザイナーの町口覚(デザイン事務所「マッチアンドカンパニー」主宰)さんですね。

(諏訪さん)町口さんが、これは『月読』だと感じたということですか?

(野村さん)随分、いろいろな話をしながらですね。『月読』に関しては、随分迷いながら作っていましたから。

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(諏訪さん)『月読』は、今回の僕の作品「神々しい」というシリーズに偶然のリンクを感じていて、《眉から蚕》と《口より獣肉を生じ》は、保食神(うけもちのかみ※古事記の場合オオゲツヒメ)を描いています。食べ物を司る女神ですが、客人としてアマテラスから派遣された月夜見尊(つくよみのみこと)をもてなすために食事を用意しますが、その時に、彼女は海に向かって魚を吐き出し、山の方に振り返って獣の肉を口から取り出したという記述があります。僕はそのイメージに強烈な印象を受けて、いつか絵画化したいと思っていました。月夜見尊はそれを垣間見て、「不浄なものを」と剣で保食神を殺してしまいます。何の罪のない保食神を殺したことをアマテラスは怒り、月読とは一切会わないと宣言して以降、1日が昼と夜に分かれた由来を語る神話です。と同時に、死んだ女神の身体から、頭からは牛馬、眉毛からは蚕蛾の蚕が生まれて、いろんな体の部分から大豆や小豆や稲、麦が生えていって、民の糧である有用植物や農産物の由来を語るものでもあるわけです。

実は世界中で似たような神話が残っていて、特に太平洋の島々に似たような話が多いんです。代表格はインドネシアのセラム島に伝わるハイヌウェレ神話でしょう。お尻から排泄物とともに宝物を生み出す少女がいて、村人に分け与えていたという話があります。だけど、やっぱり気持ち悪いから少女を殺してしまおうということになって、村人全員で殺してしまうんです。その少女の父親は、娘の遺体を掘り返して切断し、奥さんと一緒に村々の家を回って、「お前たちは娘の肉を分け合って生きていかなければならない」、という宣告をするという恐ろしい話です。やっぱりその切り刻んだ肉から、インドネシア周辺の主食である、各種の芋類が発生したという、有用植物の起源に関わる神話です。そういう物語は世界中に無数にあって、最初に必ず女神が死んでしまったり、殺されてしまったりするんです。このイメージは、実は《Yorishiro》という作品の根拠になっていますが、戦争を題材にした連作「棄民」の中で、《Yorishiro》だけちょっと異質な感じがしませんでした?

(野村さん)そうですね。

(諏訪さん)あの作品は、戦争犠牲者の鎮魂の意味で描いているわけではないのです。ある種の咎(とが)を共有するイメージです。国土に散らばって回収不能なもの、それをある種、古層の記憶、古い記憶として共有しながら生きていかなければならないというところで、実は「神々しい」のシリーズと繋がっています。神話という空想のものを描くのは、写実という制作姿勢を貫徹するなら、最も唾棄するべきというふうに思われているんですけど、そういう目に見えないものを扱うことも、いまは面白く感じていますね。

(野村さん)会場の奥に展示されている大作《HARBIN 1945 WINTER》と《Yorishiro》の作品は、どういう時間軸で描かれているですか。満州で亡くなったおばあさんの話を聞いてみたいです。

(アルティアム・鈴田)今回、満州で亡くなられたおばあさまを描いたシリーズを会場奥に展示しています。諏訪さん、この作品についてと、それから野村さんもハルビンを撮影されているということです。両者に土地の印象などもお聞きしてみたいのですが。

(諏訪さん)実は《Yorishiro》の健康な女性は、3回くらい描いています。グラフ用紙に描かれているものが最初のバージョンで、これを描きながらどういうふうに制作を進めていくか練っていきました。《HARBIN 1945 WINTER》も最初は、《Yorishiro》と同じ健康的な女性が描かれていましたが、それをどんどん痩せさせていく時に、ある程度、解剖学的な正確さを期するために描いたんです。祖母がどういう身長か分からなかったんですけども、体格はよかったという証言は得ていました。そして、画中の裸婦に少しずつ祖母と同じ経験をさせて、痩せさせていくんですけど、収容所での生活を知りませんから、実際その場にいた人を探したり、死因となった発疹チフスとはどういう病気であるか、専門医に意見を求めるといったことをしました。強制収容所ではないので、アウシュビッツとは異なるものですが、アウシュビッツの人々の痩身の具合というものも参考にしました。つまり健康な状態は絵の下層にどんどん塗り込められて言って居るわけです。だから未来の人々がこの絵を調査したとして、もしも投資撮影をしたら、絵がどんどん若返っていくように見えて、びっくりするでしょうね。

この制作が終わった後に、リサーチや制作過程の様子がTVで放送されました。先ほどの《Yorishiro》は、個人的な感情で描き始めたんですが、日本の神話に接続できるということは制作途中に思い始めました。僕の関心は「父親が見たもの」にあったのですが、戦争の記憶や、ある種の不浄や世の中でどうにもならない咎(とが)を表す時は、女性の犠牲が前景化していることが多く、「神話」あるいは「古層の記憶」というものは、時間と空間を越えて、世界中の人間が共有しているのではないかと考えました。野村さんも満州、ハルビンに縁があるんですよね。それはどういった繋がりなんですか?

(野村さん)私も祖母が満州にいて、多分父は桃山小学校に行っていたと思います。

(諏訪さん)えっ、そうなんですか。

(野村さん)諏訪さんが、絵に描いていましたよね。

(諏訪さん)ロシア人建築家が設計した、ルネサンス様式の豪奢な建築物なんですが、日本人が通っていた小学校なんです。今は、兆麟小学校(旧日本桃山小学)と名前が変わっています。満州にたくさんいた開拓移民が、特に陸路の人々は略奪に遭い、ほとんど着の身、着のまま以下の状態でハルビンに逃れてくるんですね。市街地にそんな難民が溢れたら大変なので、市内各所に一時的な収容所を作っていました。そのひとつが桃山小学校だった。

(野村さん)桃山小学校と花園小学校があって、私も見に行きました。

(諏訪さん)僕も取材した時に、校長先生とお会いしたんですけど、校長先生が女性でした。生還者の記述によると、相当数の子どもがそこで、働き手、もしくは後継を期待されてか「日本人の子供は賢い」と、養子としてもらわれていったそうなんです。かなりのお金や食料と交換の上で、子どもを引き取っていた。その小学校の校長先生のお母さんがいわゆる残留孤児で、その時にもらわれていった赤ちゃんであったと、訪問の際に逸話をうかがいました。

野村さんがハルビンに縁があることは全然知らなかったし、そういう表に出ないことが繋がることがあるんですね。実際、その場に撮りに行かれているんですか?

(野村さん)私の場合は、諏訪さんの考えているハルビンと全然違っていて、小さい時は、祖母からピロシキなんか作ってもらったりしていました。祖母はロシアの人とも仲良くしていたそうです。だから私が聞いていたハルビンの話は良い話なんです。その後、略奪されたり、連行されたりという話も聞きましたけど、小さい時はずっと良い思い出の話を聞いていました。

(諏訪さん)おばあさんの話の記憶は、ハルビンでの写真に何か影響を受けたり、指針になったりしましたか?

(野村さん)写真なので、基本祖母にハルビンの風景を見せてあげようと思って撮りに行くということなんです。晩年は写真を見ることもできませんでしたけど、基本的には祖母に故郷を見せてあげるつもりで行っていました。

(諏訪さん)そうか、誰かのためという動機があったのですね。

(野村さん)諏訪さんのハルビンの話を読んだり、聞いたりすると、自分が思っていたものと随分違うので、知らない自分がちょっと恥ずかしくなりました。

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(諏訪さん)満州にいた人の話というのは、何人もうかがったんですけど、やっぱり開拓移民で行った人と、軍属の人と、商売で行った人と、感想は全く違いますね。

(野村さん)そうですよね。

(諏訪さん)良い思い出しかないという人も結構いるんですよ。ただ70年経つと収容所というのは両国にとって、記憶したい歴史ではないのでしょうか、どんどん失われていって建物は建て変わってるし、どこからどこまでが収容所だったか、僕には全く分からないんです。ハルビンの市街地は今でも歴史的な建築物がよく保存されていて、ものすごく美しい街です。多分、良いタイミングで帰ってこられた人にとっては良い思い出しかないと思います。食料事情も本土とは比べようもないほどよかったと。だけど、日ソ中立条約を破棄してソ連が攻めてきた時、国境に近い開拓地域では、略奪や虐殺、集団自決などもおこなわれていて、男性は根こそぎ動員でほとんど残っていなかった。その中で民間人が大陸を遠路逃げてくるというのは想像を絶することです。よく自分の祖父は子供を二人も連れて帰って来れたなと思います。

(野村さん)うちのおばあちゃんは、5人くらい連れて帰ってきた。すごいなと思いますね。

(諏訪さん)昔の人はすごいよね。

(野村さん)子どもを抱いてるとレイプされにくいということで、子どもをみんなに配ってたんですって。それはよく言っていましたね。あとはお金も、所持品も全部奪われるという時があったそうなんですが、写真だけは取られないように自分で焼いたって言っていました。なかなか良い話でしょう。写真だけは、自分の手で焼いちゃう、捨てちゃうということ。

(諏訪さん)人間誰もが記憶で生きてるものだから写真というのはものすごく大事だったんですね。野村さんの仕事に繋がっておられますね。

(野村さん)大事だったんですよね。多分ね。

 

制作について、ハルビンにおける意外な共通項などトークはここで終了。そして質疑応答での回答も興味深いものでした。

(質問者A)ハルビンの絵については、お父様からの個人的な執着から生まれたとのことですが、絵が完成した後、個人的な執着を少し手放せるようなことがありましたか?何か心境が変わったり、どんなふうに思いが変遷していったのかということをお伺いしたいです。

(諏訪さん)納得したかということですよね。実は戦争に対して何かの想いがあって、メッセージを伝えたいとか、祖母に思いがあって描きたいというわけではないんです。僕が描きたくて、調べたいと思ったのは「父親が見たこと」なんです。最初の起点というのは、ハルビンや収容所であったことを書き残した父親の手記でした。その時、父は8歳くらいの子どもですから、手記にしても嘘や思い込みが混ざっていると思います。厳密に調べていくと相当な思い違いがありました。だけど、事実とは何なのかと考えた時に、実は真実はひとつじゃないのです。僕は父親が見たもの、父親が感じたこと、経験したことを調べたいと思った。彼が死んだのは1999年ですが、親子関係が悪いとか決定的に反抗期で殴り合ったとかもなくて、反面、父親は僕のことが死ぬまで何を考えているか分からなかったらしくて。それを聞いた時、僕は割と良い子だと思っていたので(笑)マヌケな話ですが、すごくびっくりしたんです。それで父親のデスマスクを丸2日かけてデッサンしながら、いろいろ考えたのですが、絵を介在すれば関係は引き伸ばせることに、静かに気がついたように思います。それを元にした大きなデスマスクのタブローを描いたのは、その10年後でしたし、かなりしつこいですよね(笑)。

人間が死ぬということはすごく多義性を含んでいて、それを絵画として検討することが今回の《HARBIN 1945 WINTER》だったんだろうと思っています。だから、ひとつ納得したから終わりというのは、とりあえずはないかな。これが正解だとも思えないし。逆に言うと、今回の仕事がきっかけで、どんどん父親の経験したことが生前より僕の中に入ってきて拡張しています。ひょっとしたらまだ続けるかもしれないし、もういいってことになるかもしれない。ただ今は目の前に別のプロジェクトがいろいろとあるし、しばらくは違うことに取り組むと思います。

(野村さん)小さい時からのお父さんを全部思い出して描いたんですか?諏訪さんが小さい時のお父さんとの関係とか。

(諏訪さん)描いている時はそれはあまり考えなかったですね。

(お客様B)絵を描く中で見えてきた真実が、最初に自分が思っていた方向性と違ってきた時にどちらを取りますか?

(諏訪さん)僕は違ってきた方に身を任せます。例えば版画家や日本画の人は、技法的にしっかり計画性をもって制作を進めなければ、成立しないものですが、油絵の特徴は絵具自体の被覆力が強く、塗りつぶしが効くことにあります。つまり自分の考えが変わったら、臨機応変に絵のプラン自体を変えていくことができる。僕はそのいい加減さを面白いことだと捉えていて、展覧会のタイトルに「未完」とありますが、実は僕は完成に対する責任感が希薄です。つまり、戸棚やテーブルを作るように工芸的な完成を求めて絵を描こうとは、現在の僕はしていないのです。他者と会話することの意味は、自分の考えが少しずつ変わっていくことにあって、同じように制作の途中でいろんな情報や他者の介入さえも受け入れながら、絵を、自分を更新してゆくことの方が重要です。そうやって絵画との関係性を確かめていきたいと思っていますね。

諏訪敦展は11月5日(日)をもって大好評の内に閉幕致しました。ご来場頂いた皆様、本当にありがとうございます。トークのレポートをご覧頂いて、アルティアムでの展示を思い起こして頂ければ幸いです。また、次号の美術手帖12月号で諏訪敦のロングインタビューが掲載されます。こちらもどうぞお楽しみに。

【展覧会ページ】
諏訪 敦
2011年以降/未完

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