バスキアとNYアーティストたち

ローランド・ハーゲンバーグ×小柳帝 トークイベント1980年代のニューヨーク レポート

9/9(日)に開催したトークイベントのレポートをお届けします。美術や映画など様々な分野に造詣の深い小柳帝さんを聞き手としてお迎えし、ローランド・ハーゲンバーグさんに1980年代のニューヨークについて語っていただきました。
(以下はトークイベントの内容を一部抜粋・編集したものです。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(小柳帝さん)ライター・編集者の小柳帝と申します。今日は、トークイベントの聞き手をつとめさせていただきます。私は東京在住ですが、実は福岡出身なので、三菱地所アルティアムでローランド・ハーゲンバーグさんの写真展が開催されることをうれしく思い、勇んで駆けつけた次第です。
アートシーンが非常に熱かった80年代のニューヨークに実際に住み、さまざまなアーティストたちと接してこられたローランドさんのお話を通して、皆さんに当時の空気感や熱が伝わればと思い、今日はお話をお聞きしていきたいと思っています。

(ローランド・ハーゲンバーグさん)皆さま、こんにちは。本日はたくさんの方に来ていただき、感謝しています。今日は、80年代に若いアーティストたちがどのようにニューヨークのアートシーンを生きていたかということをお話できればと思います。

(小柳さん)本題に移る前に、ローランドさんはオーストリアのご出身ですが、まず、その頃のことをお話いただけますでしょうか。

(ハーゲンバーグさん)当時、オーストリアは、日本と同じで、独自の歴史や文化が色濃く残る保守的な国でした。
オーストリアにいた私は、ニューヨークに対して、未来志向で自由あふれる夢の都市という印象を持っていました。10代の頃に、ヘンリー・ミラーというアメリカ人作家が書いたニューヨークに関する本を読み、ニューヨークにあこがれ、住みたい、そこに行かねばならないと思うようになりました。ヘンリー・ミラーはのちに日本人の徳田ホキと結婚したことでも知られていますね。
ヘンリー・ミラーの本で、ニューヨークにはFedExやバイク便などの宅急便サービスがあると知り、感動しました。当時オーストリアでは、国営の郵便局しかなく、民間に門戸が開かれているこの街はどんなに素晴らしいところだろうと思いました。

(小柳さん)ニューヨークに行く前には、ドイツのベルリンにもいらっしゃいましたよね。ベルリン時代のこともお話いただけますか。

(ハーゲンバーグさん)雑誌社で働くためにベルリンに行きました。当時ベルリンには、ライターのコミュニティーがありました。近代化された都市でしたが、ベルリンの壁があり、誰もが住みたいと思うような都市ではありませんでした。ベルリンから出ていきたいと思う人はいても、住みたいと思う人はあまりいなかったんです。政府は、人口の流出を防ぐために、実際の給料に12〜15%上乗せする制度を在住者に与えていました。それでも人口流出は防ぐことができず、そうしている間にアーティストが集まる場所になっていきました。当時、デヴィッド・ボウイも、ベルリンでレコーディングをしているんですよ。福岡の街が壁に包囲されている状況を想像してみてください。今でも本当に不思議な環境だったと思います。

(小柳さん)当時、ベルリンではどんなアーティストを取材しましたか。

(ハーゲンバーグさん)当時のベルリンには非常に多くのアーティストが住んでいて、まさにコンテンポラリーアートの中心地でした。当時私はコンテンポラリーアートに関する書籍を出版しました。私にとって最初の本です。
アンゼルム・キーファーやフランチェスコ・クレメンテにもドイツで会いました。当時、クレメンテやアンディ・ウォーホルもベルリンを訪れており、それがきっかけでニューヨークに取材に行くことになりました。

(小柳さん)クレメンテはイタリア出身のアーティストですが、ニューヨークでも活躍しました。ウォーホルも来ていたとは、当時ベルリンはとても面白い街だったんですね。

(ハーゲンバーグさん)ベルリンはニューヨークの縮小版といった感じで、非常にクレイジーな場所でした。規模は小さいけれど、多くのアーティストを惹きつける街でした。

(小柳さん)そして、いよいよローランドさんはニューヨークに行きますが、何年のことですか。

(ハーゲンバーグさん)1983年に初めてニューヨークに渡りました。当時ヨーロッパからニューヨークに行くのは難しく、航空チケットが現在の5〜7倍くらいで、非常に高価でした。しかし格安航空券会社が出き、当時およそ100ドルで航空券を入手し、ロンドンに4日ほど滞在し、自分の番になるのを待って、ようやくニューヨーク行きの飛行機に乗ることができました。
ニューヨークに行った目的のひとつは、ニューヨークのアーティストに関する記事を書くことでした。バスキアやマイケル・スチュアート、キース・ヘリングなどのグラフィティー・アーティストです。彼らは地下鉄にスプレーでペインティングをしていました。不法行為のため取り締まられ、バスキアの友人でもあったマイケル・スチュアートは、警察につかまり抗ったことで命を落とすという、ショッキングな事件が起こりました。私はこの事件について記事を書き、ドイツで発表したところ大きなニュースになりました。

(小柳さん)その頃のニューヨークを、ビビットな写真で紹介をしていっていただければと思います。これはどういった写真ですか。

©︎ Roland Hagenberg

©︎ Roland Hagenberg

(ハーゲンバーグさん)これは、ウエストブロードウェイ、ソーホー地区の写真です。ワールドトレードセンターが奥に見えます。このエリアが、コンテンポラリーアートの中心でした。
今では、この地域は表参道のようになっています。きれいで安全で物価が高い。当時は世界中のアーティストが憧れ目指す場所で、ここに住んでキャリアをスタートさせ、有名になり、ビッグになるという夢を叶えるための場所でした。何千もの若いアーティストを惹きつけたこの街で、実際に有名になったのはバスキアなどごく限られた人たちだけです。

(小柳さん)1983年ですと、バスキアが23歳。ローランドさんはその頃何歳でしたか。

(ハーゲンバーグさん)28歳です。

(小柳さん)みんな20代くらいの若者だったんですね。

(ハーゲンバーグさん)私はジャーナリストとして、特にバスキアに興味を持っていました。これまで白人主流だったアート界に初めて誕生した黒人アーティストだったからです。美術館に展示されるレベルの初めての黒人アーティストです。アート界のオバマとも言えましょう。

©︎ Roland Hagenberg

©︎ Roland Hagenberg

これは、バスキアのアトリエの写真です。当時のアーティストの大半がこういったスタジオを持っていました。うらぶれているように見えますが、冒険、危険、夢といったものを醸し出していますね。

(小柳さん)バスキアとはどうやって知り合ったんですか。

(ハーゲンバーグさん)最初に会ったのはギャラリーです。バスキアのエージェントをしていたギャラリーオーナーのアニナ・ノセイと面識がありました。彼女のギャラリーがあるビルに、私のオフィスもあったので。当時、バスキアはすでに有名だったので、展覧会で作品は見ていました。バスキアとは初めて会って以来、何度か会う機会がありました。
その後、雑誌の仕事でバスキアの取材に行きました。その時バスキアは制作中で、制作を邪魔されて、私たちの来訪を喜んでいませんでした。そのため、最初の会話は少しぎこちないものでした。
今回の展覧会では、この時の取材テープから、3分間の音声を編集し映像作品として展示しています。バスキア、私、私の友人の間で交わされたやりとりです。緊張感のある、生の声を聞くことができます。バスキアが怒って「もう帰ってくれ」と言っている音声も入っています。
日本と欧米ではインタビューのやり方が違います。日本では、質問が事前に準備され、それに沿って取材がおこなわれます。欧米では質問を事前に準備はしません。生の声やその時の感情を引き出すこと、そして話していて初めて気づくこと等を引き出すことがとても重要です。この取材ではうまく引き出せたと思っています。実録の音声をぜひ展覧会会場でご堪能ください。

(小柳さん)録音したカセットテープは40分くらいあるらしいのですが、一番熱くバトルしているところを編集したそうです。少し居心地が悪くなるくらいですが、ぜひ聞いていただきたいと思います。次の写真です。

©︎ Roland Hagenberg

©︎ Roland Hagenberg

(ハーゲンバーグさん)ニューヨークで最初に住んだアパートです。
一生懸命どうにか日々の生活をやりくりしていました。アーティストの大半は昼頃起きて制作し、夜はクラブに行って交流していました。クラブが現在のインターネットの役割を果たしていたと思います。私の情報源はクラブでした。

(小柳さん)ニューヨークはクラブ・ディスコ文化が非常に華やかだったと思いますが、どんなクラブに行かれていましたか。

(ハーゲンバーグさん)磯崎新が設計した「ザ・パラディアム」が人気でした。オーナーは、「クラブ54」を運営していた人です。展覧会のオープニング後にこぞって、こういったクラブに繰り出していました。

04

(ハーゲンバーグさん)左の写真は私がニューヨークに到着した1日目です。髪型が今とは少し違いますね(笑)。
私にとっては、ワールドトレードセンターこそが自由の国アメリカのシンボルでした。ヨーロッパでは、入国や移民の管理が厳しく、警察であってもパスポートを見せろといってきます。一方で、当時のアメリカは、警察は人民を守る存在で、移民者に対しても優しい文化でした。それが、2011年の9.11で一変してしまいました。それでも、私にとっては、ワールドトレードセンターは自由のシンボルであり続けています。
当時は、ギャラリーやアーティストのネットワークを通じて、多くの人が仕事を得ていました。私は、キース・ヘリングから、彼の大きな彫刻作品を、彼のアップタウンのアトリエからダウンタウンのギャラリーまで運ぶという仕事を依頼され、地下鉄で運びました。この仕事で、キース・ヘリングから50ドルをもらいました。その彫刻は今では非常に高価なものになっていると思います。
(右の写真について)この写真は、ギャラリーの壁に描かれたソル・ルウィットの作品を塗りつぶして、壁を白色に戻しているところです。こうした仕事をして、どうにか収入を得ていました。

(小柳さん)ソル・ルウィットは、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートの第一人者ですが、キース・ヘリングなどのグラフィティー・アーティストとも同時代に生きていたということですね。

05

(ハーゲンバーグさん)次は、寄稿していたベルリンの雑誌の表紙(左)とその中の1ページ(右)です。見開きページの、右上の写真はキース・ヘリングとケニー・シャーフ、その二人の上にいるのがギャラリーオーナーです。その左隣のページの下に写っているのが、バスキアとウォーホル。同ページの右上には、のちにバスキアの映画を撮ったジュリアン・シュナーベル。そして、左中央に写っているのが、ナム・ジュン・パイクの奥さんでもある久保田成子。のちに私が初めて一緒にお寿司を食べた人です。イタリア人アーティストやグラフィティー・アーティスト、黒人アーティスト、様々なアートがニューヨークに同時に存在しているということを紹介した記事です。

(小柳さん)錚々たる面子ですね。

(ハーゲンバーグさん)今気づきましたが、アメリカ人ですがドイツ系の名前がたくさんありますね。ドイツ語でヘリングは「釣り針」、シャーフは「辛い」、シュナーベルは「くちばし」という意味です。

(小柳さん)面白いですね。次、コンタクトシートが出てきました。

©︎ Roland Hagenberg

©︎ Roland Hagenberg

(ハーゲンバーグさん)当時、写真フィルムは高価でしたが、白黒フィルムは比較的安価だったので、私は白黒写真を撮っていました。取材時間に限りはあるし、ドラッグをやっているアーティストは気分がどんどん変わるし、フィルムを無駄に使わないためにも、取材時は緊張して集中してシャッターを押していました。

(小柳さん)僕も編集者として仕事を始めた頃は、このようにコンタクトシートから写真をセレクトして、それをプリントするというやり方をしていました。一枚ずつプリントするとお金がかかりますからね。
今ローランドさんは写真家として活躍されていますが、元々ジャーナリストとして、アーティストに取材をしてテキストを書き、写真も自分で撮っていたんですね。

(ハーゲンバーグさん)ジャーナリストとしてインタビューをすることで、被写体であるアーティストと関係を築くことができます。私は写真家である前にライターです。ライターとして1時間ほどかけて入念にインタビューをし、その後にポートレート写真を撮るというのが、私のスタイルです。インタビューすると、被写体は徐々にリラックスしてオープンになる。そうした空気が私の写真には表れているのではないかと思っています。書くことと撮ることは、私にとってはひとつなのです。
マックス・エルンストの奥さんでもある、ドロテア・タニングも取材したことがあります。彼女は当時84歳でした。彼女は写真嫌いで、どんなに頼んでも写真を撮らせてくれませんでした。なので、彼女の手のひらをコピーしたものと、30年ほど前にエルンストと一緒にうつっている写真を使って記事を書きました。その雑誌を彼女に見せたところ非常に怒られて、その雑誌で叩かれました(笑)。

(小柳さん)ドロテア・タニングは、シュールレアリストとして活動していた作家で、近年フェミニズムの文脈で再評価されている画家の一人ですね。次は。

07

(ハーゲンバーグさん)これは私の作業風景を撮ったものです。当時、いろいろなアーティストとコラボレーションし、カタログや冊子などを作っていました。荒川修作についての記事も書きました。左側の写真は、私がタイプライターで台割を作成しているところです。
08

これは当時私が作っていたギャラリーガイド雑誌『アートファインダー』で、この2号はコンピューターで作ったもので、1984年と1985年ですね。コンピューターを導入して作業が非常に楽になって感動しました。テクノロジーはアートや編集にも影響を及ぼします。
ただ、80年代のニューヨークは今に比べるとローテクで、人と人の距離が近かった時代でした。私はアーティストたちとともに過ごすことを大切にしていました。

(小柳さん)その場にいなければ見られない、みたいなことも大きかったかもしれませんね。

Keith Haring ©︎ Roland Hagenberg

Keith Haring
©︎ Roland Hagenberg

(ハーゲンバーグさん)キース・ヘリングやバスキアは当時のシンボル的存在でした。特に、キース・ヘリングは、自身がゲイであると初めて公言したアーティストで、ゲイのサポート活動やエイズの対策活動を行い、エイズの危険性を広く普及したという意味で、アーティストでありながら活動家でもあった。
現在、こういった政治的な活動をおこなうアーティストがどれだけいるでしょうか。80年代は社会問題に対し、活動を起こすアーティストがたくさんいました。今も様々な世界規模の問題があるけれど、政治的活動を起こすところまではいっていない印象を受けます。

(小柳さん)次は、先ほどもお話に出たクレメンテですね。

Francesco Clemente ©︎ Roland Hagenberg

Francesco Clemente
©︎ Roland Hagenberg

09

(ハーゲンバーグさん)クレメンテは、イタリアからニューヨークに移ったアーティストです。飼っていたカラスが写っています。これは、私がドイツで初めて出版した本にも載せました。
下の絵は、彼が私を描いたポートレートです。「今から描くから、そこに座って」と言われて。自分をクレメンテに描いてもらえることに感動しました。とてもうれしかったです。この絵は展覧会にも出され、その後どうなったのかなと思って、クレメンテに電話したのですがイタリアに行ってしまって連絡が取れず、ギャラリーに電話すると、もうスイスに売られてしまったと言われて、がっかりしました。

(小柳さん)この頃、私は東京に住んでいて、クレメンテが大好きでした。当時学生で、高かったけど頑張ってアルバイトをして3〜5万円もする画集を買いました。そんなクレメンテに絵を描かれた人と今、こうやってお話をさせていただけるというのは、奇跡のような話です(笑)。ありがとうございます。

©︎ Roland Hagenberg

©︎ Roland Hagenberg

次はどうでしょうか。ルイーズ・ブルジョワ。六本木ヒルズの広場にある蜘蛛のオブジェを作った方ですね。

(ハーゲンバーグさん)ルイーズ・ブルジョワは、私のおばあちゃんを思い起こさせる人で、彼女もおばあちゃんのように私に接してくれました。人として魅力溢れる方でした。

11

(ハーゲンバーグさん)これは私の仕事場だったアパートで、スイスのアーティストとシェアしていました。当時の仲間とは今でも連絡を取り合っています。こうした繋がりを通じて、いまも展覧会などのプロジェクトをおこなっています。

12
(ハーゲンバーグさん)これは私が作ったギャラリーガイド誌『アートファインダー』です。表紙は、ご存知の通り、アンディ・ウォーホルです。ウォーホルには、この頃何度も会いました。いつもウィッグをかぶっていて、面白いスーパースターでした。

13

これはインタビューを収録したテープです。

(小柳さん)これもそのまま展示してありますので、ぜひご覧ください。

15

(ハーゲンバーグさん)右下の書籍『HAPPY HAPPY』は、ユニセフのプロジェクトで作った子ども用のぬりえの本です。マーク・コスタビなど多くのアーティストが参加してくれました。
左の写真は、当時の出版チームのメンバーです。彼らは今、イラストレーター、経営者、美術評論家などになっています。

Julian Schnabel ©︎ Roland Hagenberg

Julian Schnabel
©︎ Roland Hagenberg

(小柳さん)ぬりえの本は、当時親交のあった方や、過去に仕事をした方に依頼して、作られたんですね。

(ハーゲンバーグさん)この写真は、80年代のシンボル的写真のひとつと言えるでしょう。当時のアートシーンは男性主流で、ペインター、評論家、印刷会社まで主に男だらけで、女性の活動は限られていました。「ゴリラガールズ」と称するアート業界の女性たちが、この写真に対して「どうしてこんなマッチョな男性社会なんだ」と抗議をおこしました。ゴリラのお面を付けて、美術館などをジャックして、看板を持って抗議活動をおこなっていました。

(小柳さん)写っているのはジュリアン・シュナーベルですね。アーティストでもあり、バスキアの映画を監督したりもしています。ちょうど、ホットニュースですが、ウィレム・デフォーがベネチア国際映画祭で今回主演男優賞を獲ったんですが、その映画(『At Eternity’s Gate(原題)』)を撮ったのがジュリアン・シュナーベルです。

(ハーゲンバーグさん)今日の話はこれで終わりです。トークを通して、皆さんが少しでも80年代のニューヨークの雰囲気や感覚的なものを味わっていただけたのであれば、幸いです。最後にお伝えしたいのですが、テクノロジーの進歩によって、アート、アーティスト、それを鑑賞する人の距離が少し広くなってしまったことが、当時と現代の大きな違いだと感じています。もちろんSNSなどのテクノロジーは、私たちをより緊密に結びつけてはくれます。私のいう「距離」とは、実際の身体的、物理的な距離のことです。
今日は本当にありがとうございました。

(小柳さん)今日は若い世代の方もたくさんいらっしゃっていますが、ハーゲンバーグさんがおっしゃったように、80年代はみんなが近いところで活動して、お互いに影響を受け合っていて、その空気感や雰囲気がみなさんに伝わったらいいなと思います。そのうえで、展覧会も改めてご覧いただければ幸いです。今日はこのような形でお話をお聞きいただき、ありがとうございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1980年代のニューヨークのアーティストやアートシーンの様子を知る以外にも、ローランド・ハーゲンバーグさんの時代における洞察力をうかがい知ることができる貴重なトークとなりました。会期は残り4日となりました。ご来場、お待ちしております。

【展覧会ページ】
バスキアとNYアーティストたち
Roland Hagenberg 写真展

ニュース&レポート アーカイブ