チャペック兄弟の絵本・ブックデザイン・舞台

オープニングイベント 講演チャペック兄弟の創作とその時代 レポート前編

展覧会オープニングイベントとして、中東欧美術および文学を専門に、多数翻訳を手掛け、東京大学で准教授として教鞭をとっている阿部賢一先生をお招きし、チャペック兄弟が生きた時代とその創作についてお話いただきました。非常にわかりやすく面白いと大好評でしたので、その内容を抜粋・編集したものを2回に分けてお届けします!

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(阿部賢一) 今日はこういった機会に福岡でお話しできて大変嬉しく思います。

カレル・チャペックが「ロボット」という言葉を世に出したのは1920年、ちょうど100年前のことです。私たちが知っている人造人間の雛形を作ったのが、このカレル・チャペックという人物です。今日は、なぜこの時代にチェコスロヴァキアで「ロボット」という言葉が生まれたのか、なぜチャペックという作家が誕生したのか、ということをお話していきたいと思います。

チェコスロヴァキア共和国

出典:„Atlas Světa“ Praha: Vojenský zeměpisný ústav v Praze, 1931. (https://cs.wikipedia.org/wiki/Soubor:R%C4%8Cs._Pom%C4%9Bry_n%C3%A1rodnostn%C3%AD.jpg)

出典:„Atlas Světa“ Praha: Vojenský zeměpisný ústav v Praze, 1931.
(https://cs.wikipedia.org/wiki/Soubor:R%C4%8Cs._Pom%C4%9Bry_n%C3%A1rodnostn%C3%AD.jpg)

チャペック兄弟は、チェコスロヴァキアができた時代の立役者です。1918年、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国がなくなり、チェコスロヴァキアという国が誕生しました。こちらが当時の地図です。非常に横長い。左側が今のチェコです。国境が、ドイツ、オーストリア、ポーランドに接している。このオレンジのところは、今日のウクライナになります。かつてのチェコスロヴァキアはとても大きかったんですね。住んでいる民族で色分けしています。最も多いピンクがチェコスロヴァキア人です。左側の水色がドイツ人。ドイツ系の人々が当時から多かったということがお分かりいただけると思います。緑がハンガリー系。オレンジはポーランド系、あとはロシア、ウクライナなど。チェコスロヴァキアは多民族、多文化の国でした。
国ができあがった時に中心となったのが、マサリク大統領です。私たちにとっては、国ができるという感覚は分かりづらいかと思うんですが、国ができるということは、すべてを一から作るということです。紙幣をつくる、切手をつくる。ありとあらゆる役所、省庁、かつては領事館しかなかったところが大使館になる。一夜にしてとは言いませんが、短期間の間に、すべてをプラハで担うようになります。その時に活躍したのは官僚や政治家だけでなく、あらゆる文化人も動員されました。例えば、チェコスロヴァキア建国後作られた10コルナ紙幣。国の依頼で、皆さんご存じのアルフォンス・ミュシャ(チェコ語の発音ではムハ)が手がけました。国から依頼され、芸術家たちが短期間でそれまでなかったものを作った時代でした。今日お話しするカレル・チャペック、ヨゼフ・チャペックの芸術家兄弟も、ミュシャのように、チェコスロヴァキア建国時に大きな役割を担ったのです。

チャペック兄弟

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Karel_a_Josef_%C4%8Capkov%C3%A9_1927.jpg

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Karel_a_Josef_%C4%8Capkov%C3%A9_1927.jpg

カレル・チャペックは、小説やおとぎ話の作家、劇曲家として知られていますし、ヨゼフ・チャペックは画家として知られています。日本ではあまり訳されていませんけど、ヨゼフは詩人でもありました。共通するのは、二人とも生涯記者であったということです。彼らは、チェコスロヴァキアができてから、第二次世界大戦が始まる前の1939年3月にチェコスロヴァキアがドイツ保護領となり、国がなくなるまでの約20年間に8〜9割の作品を作りました。

カレルはその前年1938年のクリスマスに48歳という若さで、肺炎が原因で亡くなっています。ナチスの侵攻が続いている状況で、プラハ城の聖ヴィート大聖堂で夜通しクリスマスに祈り、寒くて体も冷えて、肺炎にかかったのではないかと言われています。
ヨゼフも当時非常に影響力のある人物だったため、すぐ捕まりました。初めはいろんな収容所で絵を描く仕事をしていましたが、最終的には強制収容所で亡くなったと言われています。ヨゼフがいつどこで死んだのかは、遺体が見つかっておらず分かっていません。

じゃあ、新しい国ができてわずか20年で無くなってしまうという状況の中で、二人は何をしたのか。画家であるミュシャが切手や紙幣のデザインをした時に、作家であるカレル・チャペックは言論空間、つまり社会情勢の基礎となる言葉を作っていきました。新聞にいろんなエッセイや政治的な記事、チェコスロヴァキア人の文化生活について書きました。また、カレルは毎週金曜日に自宅に文化人を招いていたのですが、この「金曜日会」にマサリク大統領もお忍びでやってきて、いろんな議論をしたと言われています。

出典:https://cs.m.wikipedia.org/wiki/Soubor:T._G._Masaryk_a_K._%C4%8Capek.gif

出典:https://cs.m.wikipedia.org/wiki/Soubor:T._G._Masaryk_a_K._%C4%8Capek.gif

カレル・チャペックの作品を紹介しますと、みなさんご存じの『長い長いお医者さんの話』、『ダーシェンカ』といった児童文学。それから『ロボット(R.U.R.)』のような近代SF。『絶対製造工場』や『クラカチット』といった放射能を想起させるような作品。不死の女性が登場する不滅をテーマにした戯曲『マクロプロス事件』。短編推理小説『ひとつのポケットから出た話』。哲学小説も書いています。いろんなジャンルを書いているんです。これはチェコスロヴァキアという国が新しくできたということと密接に関係しています。こういったことは、この人はこの分野といった住み分け、つまり専門化が進んでいるフランスやドイツでは起きない現象です。もちろんチェコ文学というのは以前からありましたが、国の人口も増えて、共通して読める国民文学となるのはこの時が初めてだったんです。そこで、カレル・チャペックは、子どもから大人まで、さらには哲学、SFもの、息抜きができるようなエッセイまでと、縦横無尽にありとあらゆる層を対象に書き、文学の土台を作ったのです。

さらに特徴的なのは、それらの作品の多くが新聞小説だったことです。彼はジャーナリストだったので、都度どんどん書いていった。かつて夏目漱石がそうだったように、チャペックの主要な作品は新聞小説で読まれてきました。単に今のように、特定の小説家が特定の小説を書いて、文学好きな人が読むというのとはちょっと違います。日本だと明治時代あたりを想像していただければと思いますが、特段文学好きというわけではない層も、この時代は新聞小説を読んでいた。先ほど言った言論・文化空間というのはまさにそういうことで、今まで以上に日常の出来事も含めた問題が作品で書かれていました。あとは『園芸家12ヶ月』というマニアックなエッセイや旅行記もありますし、いろんなジャンルの作品を多数書いていったのです。

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レポートは後編へ続きます。

【展覧会ページ】
「ロボット」誕生100年記念
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